「カムチャツカならどう使ってもいい」の大物発言も…旧ソ連エリート共産党員“岡田さん”は何者だった?写真はイメージです Photo:PIXTA

ニッポン放送(1242khz)に近い1251khzも含め中波・短波で電波ジャックを繰り返したモスクワ放送は、日本のリスナーを当惑させることもあった。マルクス・レーニン主義の優位性を世界に伝えるための多言語プロパガンダ局で、日本向け放送の現場を掌握していたのが、岡田敬介という人だった。日本兵として出征したのに、いつしかソ連のエリート階層の共産党員になったという謎だらけの人生を追った。※本稿は、青島顕『MOCT「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』(集英社)の一部を抜粋・編集したものです。

「日本課」を名乗る手紙係は
どうやらただ者ではないようだ

 1970年代に海外からの放送を聴取するのが中高校生らの間でブームになっていたころ、モスクワ放送を聞いて感想を送ったり、音楽のリクエストをしたりしたことのある人が、口をそろえて語るエピソードがある。モスクワ放送から届く返信には、イラスト付きのカードや絵はがき、番組表とともに、直筆の丁寧な手紙が添えられていたことだ。

 返信の手紙は時候のあいさつにはじまり、お便りや曲のリクエストへのお礼がつづられていた。末尾に書いた人の名前はなく、「日本課」と記されていた。

 中学、高校時代にモスクワ放送を聞いていた作家の佐藤優さんも手紙を受け取っていた一人だ。

「紫色のインクで丁寧な文字で書かれていましたね。『試験頑張ってください』とか、心をつかむのがうまい文章でしたね」と懐かしそうに語る。

「日本課」を名乗っていたのは、岡田敬介さん(2013年、87歳で死去)である。日本課に届く手紙に対して、一人一人に返事を書き続けていた。

 1970年代、日本語放送への反響の手紙の数がモスクワ放送内の国別で常に1、2位を占めることができたのは、岡田さんの功績とも言えるだろう。

 仕事はリスナーからの手紙を受け付ける係だった。こう書くと、あたかも末端の職員のようだが、そうではない。日向寺康雄さん(編集部注/アナウンサーを担当。1987年冬、29歳で入局)は「日本課に届く手紙を全て開封する権限を持っていた。日本の新聞も検閲し、切り取ってから日本人職員に見せていた。(日本共産党の機関紙である)『赤旗』が七夕の短冊のように切り刻まれた姿になってから見せられたこともある」と証言する。

 当時、日本とソ連の共産党の関係が悪化しており、日本共産党が「赤旗」紙上で、ソ連を批判することもあったはずだ。岡田さんはそうした「内輪もめ」のようなものを日本人職員に見せない方がよいと判断していたのだろうか。

 岡田さんは日本人職員が勤務していた部屋ではなく、日本課のロシア人幹部たちの執務室で働いていた。モスクワ放送日本課に在籍した経験のある人たちは「日本人職員の監視役だったはずだ」と口をそろえる。

社会主義に憧れソ連へ投降か
外国出身者ながら共産党員に

 岡田さんはソ連時代、指導層であり、一種の特権階級であった共産党員だった。慶應義塾大学教授だった中沢精次郎さんの論文「ソ連共産党 その構成員の民族的組成」を読むと、1973年の党員・党員候補は約1400万人で、ロシア共和国を例にとれば人口の7.1%に過ぎない。政治的立場の違う国である日本の出身者が党員になるのは、相当ハードルが高かったはずだ。