半田さんは「力のある方でした。特に軍に強かった」と証言する。ソ連末期、半田さんはサイドビジネスとして、デリバリーのカレー店を出してはどうかと岡田さんに持ちかけたことがあるのだという。岡田さんは軍に連れて行ってくれて、あっさりと許可を取ってくれた。岡田さんも出資する予定だったが、結局このビジネス自体が実現しなかった。

 北方領土返還交渉でも相談した。スポンサーを探して、北方4島にリゾート施設を作るアイデアを持ちかけてみた。岡田さんの答えは「さすがに4島はまずいけど、カムチャツカなら、どこをどう使ってくれても構わない」だったという。

 どれもただ者ではないことをうかがわせるエピソードだ。

 東西冷戦終結後の1990年、ほぼ半世紀ぶりに日本に一時帰国を果たし、東京に住んでいた姉らと再会している。同世代で、同じように戦争を体験したスタッフらが1970年代に一時帰国したことに比べると、極めて長い時間がかかっている。ソ連共産党員の肩書きが日本政府のビザ発給の支障になった可能性はないだろうか。

 半田さんは、岡田敬介さんが日本に来たとき、岡田家の墓に一緒に参ったことを覚えている。岡田さんは日本に帰ってきてから死にたかったのだろうと慮る。

 岡田さんは2013年7月1日、ロシア人としてモスクワで亡くなった。ロシア正教徒としての葬儀が営まれ、モスクワ郊外に葬られた。「『ぼくには夢がある』とおっしゃっていました」と半田さんは言う。家族とともに日本に住みたいということだったのか。今となっては、それが何なのかは分からない。