半田さんの左手には93年に岡田さんが一時帰国した際に一緒に銀座に行って、三越で買ってもらったというダイヤの指輪が光っていた。ソ連崩壊後のロシアではハイパーインフレが起き、生活に困っている人が多かったはずだ。そのエピソードからは、岡田さんは、なんらかの資産を持ち、余裕のある暮らしをしていたことも見て取れる。

 半田さんは93年の来日中、岡田さんから「今まで誰にも言わなかったけれど」と、身の上を明かされた。それを岡田さんが亡くなった後、追悼する形で雑誌「正論」2013年10月号に記している。

 それによると、学徒出陣して朝鮮半島で敗戦。8月23日にソ連軍に捕まって捕虜になったと話したという。半田さんは「ソ連軍へ移った」というような話は聞いていないのだという。

 捕虜になった後、脱走。また捕まって、2週間後に放免。その後、ソ連の東の果てであるカムチャツカ半島の漁業コルホーズの募集に応じて、缶詰工場で働き、工場長の秘書と結婚。1959年に妻の親類を頼って、ソ連の東端から西端のレニングラード(現・サンクトペテルブルク)に行き、その後、首都モスクワの住宅公団に職を得る。さらに1966年、ソ連共産党員となり、その年、モスクワ放送に転職したのだという。

どんな経歴だったのか
事実は確認できなかった

 放送局員や他の報道機関の人たちに語っていた表向きの自分史とは、かなり違うことが語られている。どちらが正しいのか。客観的な判定は難しい。半田さんは「私に対してはウソをつく理由がない。本当のことを(後世に)伝えてほしかったのではないか」と、自分に語った歴史を信じている。確かに、敵側に移るというような不自然な説明より信憑性がある。やっぱり捕虜だったのかと思えば納得もできる。ではなぜ、他の同僚には「捕虜になったのではない」と言い張っていたのだろうか。

 加えて、なお不自然な点や、ところどころ説明の中に抜け落ちた点が目に付く。脱走後、ソ連軍に捕まったのに2週間後に放免されるなどということがあるのか。さらに、移住の自由が制限されていた当時のソ連において、極東の偏狭な場所から国内第2の都市のレニングラードや首都モスクワに移住するにはコネや理屈が必要だと思われるが、どんな事情があったのか。単にロシア語ができる日本人ということで、重宝されたということなのか。何よりも、ソ連共産党員にどうやってなったのか。