経歴は謎に包まれている。放送局で同僚だった日向寺さんたちの話を総合すると、1925年に兵庫県尼崎市に生まれた。東京で育ち、自由学園(東京都東久留米市)に学んだ。44年に学徒出陣で出征し、朝鮮半島にいたが、部下を率いて自主的にソ連軍に移った。社会主義ソ連に憧れていたのだという。戦後はカムチャツカ半島の漁業団(コルホーズ)で働き、そのころ結婚したが、1960年代後半にモスクワに移り、1968年からモスクワ放送に勤務した。ソ連崩壊後の「ロシアの声」時代を合わせると放送局への勤務は40年以上になった。亡くなる前年まで働いていたという。

 日向寺さんは「捕虜になったのではなく、自主的にソ連に来たのだ」と本人から聞いている。同世代で、シベリア抑留中にスカウトされた人たちと自分とは違うというのが、岡田さんの自負だった。

 戦争中、あるいはその直後に敵側である「ソ連軍へ移る」とは、いったいどんな状況なのだろうか。しかも、それ以上のことを聞かれるのを嫌がっていたようだ。日向寺さんによると、マスコミの取材を受けていたとき、「ソ連軍に移ったとき、部下の人たちはどうなったのか」という趣旨の質問をされたとたんに、岡田さんが席を立ってしまったと聞いたことがあるという。

産経新聞モスクワ支局長夫人に
告げられた、もう一つの経歴

 他にも岡田さんの経歴を聞いていた人がいた。ペレストロイカ末期の1989年からソ連崩壊後の1992年まで3年間、モスクワ放送でアナウンサーを務めた半田亜季子さん。当時、産経新聞モスクワ支局長だった斎藤勉さんの妻だ。いくら東西冷戦が終結する年だったとはいえ、「産経新聞」の特派員夫人が、ソ連の公式見解を伝えるモスクワ放送に勤務するのは不思議な感じがする。局側に何か思惑があったのだろうか。

 半田さんはアナウンサーとして、街頭インタビューを担当したそうだ。出勤の際には黒塗りの乗用車で送り迎えがあったという。特別待遇だったことがうかがわれる。

 半田さんは在任中、岡田敬介さんから娘のようにかわいがられたという。