日本社会で浮いた存在を
芸能界がピックアップ

 高校は日本を離れ、英国四天王寺学園の寮に入った。休暇で帰った日本でデビューの足がかりをつかむ。レコード会社のディレクターと知り合い、書きためた詞を送ったら、次の休みで日本を訪れたとき、「10代の記念に」とレコーディングスタジオに招かれる。そこではかおりさんの歌詞のメモを元に、ロックグループ、エコーズのボーカルだった辻仁成さんがデビュー曲「ZOO(ズー)」を作詞・作曲していた。17歳でデビューすることになった。

 日本人の父とソ連人の母という出自は、当時の日本社会では珍しい存在だったはずだ。目鼻立ちの整った顔つきで、歌がうまく、書いていた歌詞にも見るべきものがあったのだろう。芸能界が放っておくはずがなかった。翌年、オールナイトニッポンのパーソナリティーに抜擢された。

 土曜深夜(日曜早朝)の午前3時から5時という過酷な時間帯の生放送で2年間パーソナリティーを務めたかおりさんは、91年6月に降板。最終回ではこんな言葉を残している。

「最後に、みんなに言うとしたら、あたしがこのラジオやって自分の中に得たものというのは、人生が全部生放送なんだなって。自分はこうやって電波を通して生放送をやっているけど、人生全てが生放送で、時には放送禁止用語も言って反省文を書くこともあるけど、だけど生放送は続いている」(「川村かおりのオールナイトニッポン」最終回)

 その後、音楽を一度やめた後に復帰。結婚と長女の出産をしたが、2004年に乳がんにかかってしまう。2009年7月28日、38歳の若さで亡くなった。亡くなる2カ月前に渋谷公会堂でコンサートを開き、それを7歳の長女・るちあさんの目に焼き付けた。そんな生き方は伝説のようになってしまった。

「嵐のような人生だった」

 父親の秀さんは娘の38年間をそう表現する。