秀さんはそのとき36歳。「日本人は若く見えるからね」と半世紀以上前の出来事を少し照れながら話す。それにしても大胆な行動だった。当時のソ連ではまだ少なかった乗用車を乗り回すハンサムな日本人は目立っていたのだろう。紆余曲折があったというが、杉原千畝さんが立会人を務めて、2人は結婚することになった。

母はソ連で、娘は日本で
つらい仕打ちを受けた

 東西冷戦の時代。ソ連市民が西側の外国人と結婚するのは勇気のいることだった。さまざまな障害を乗り越えなければならなかった。エレーナさんは所属していたソ連共産党の青年組織「コムソモール」の団員証を目の前で破られたこともある。

 結婚後も風当たりは強かった。物不足のソ連では、外貨を使える店にしか売っていない物があった。外国人しか入れないこうした店に出入りできるようになったことがねたみを招いた。買い物に出かけて、これ見よがしに「売春婦」とののしられたこともあった。

 国際結婚で生まれた娘のかおりさんもつらい体験をしている。小学校6年生のとき、秀さんの転勤で日本に帰ったが、転校した千葉県の小学校で激しいいじめにあったのだ。二つの国にルーツを持つ彫りの深い顔立ちは、目立ってしまったのだろう。そのころの日本社会では、ソ連はよくは思われていなかったし、子どもたちにもそれは伝わっていたに違いない。かおりさんは上履きを隠されたり、教科書を破られたりした。

 中学校に上がって落ち着きかけた1983年の秋、大韓航空機撃墜事件が起きる。ソ連が国連の場で事実関係を否定したこともあって、ソ連への非難が集中し、日本社会でソ連は「悪」の代名詞のようになった。かおりさんは教師から、ソ連を代表する存在として「外道」と名指しされたことさえあったという。リストカットをしたこともある、と著書の中で打ち明けている。

 日本人のソ連嫌いが決定的になっていた1980年代の日本で中学時代を送ったかおりさんの孤独をいやしたのは、秀さんがプレゼントしてくれたスヌーピーの形をしたラジオから流れる音楽だった。

 なかでも心を捉えたのはパンクロック、とくにセックス・ピストルズのベーシスト、シド・ヴィシャスだった。ロックの世界に心を引き込まれ、原宿通いをするようになった。