向田邦子さんとの思い出

 八月二十二日、土曜日。仕事場に出かけた。普通は土曜日は仕事場を休むことにしているのだが、片づけておきたい仕事があったのだ。講談社文庫「マザー・グース」。谷川俊太郎訳のマザー・グースは定評のあるところ。訳し下しも加えて四百篇近くが、文庫で四分冊となる。短い詩で一点、長い詩で数点、各巻百点以上の絵を描いているわけで、結構時間のかかる仕事なのである。既刊が二冊、その日は三冊目の仕上げであった。

『寅さん』を映画館で一緒に観たあと、渥美清が和田誠に語った「心動かされた言葉」

 ラジオをつける。音が鳴っているのは仕事場の習慣で、レコードやテープの時もあるのだが、ぼく一人の時はラジオであることが多い。かけ換える面倒を省くためだ。ラジオは台湾の飛行機事故を報じていた。乗客に、K・ムコウダの名前があると言う。頭にガーンと来た。向田邦子さんが台湾に行っていたのを知っていたからだ。

 ほんの少し前、ぼくは向田さんと対談をした。雑誌は「キネマ旬報」。向田さんが映画雑誌の編集者をしていたことがあることから、ぼくがホストの形で不定期に連載している対談の、ゲストとして出席していただいたのである。前日の金曜日に校正刷りが出た。それに目を通し、対談の後記を書いた。
「向田さんにもゲラを見て貰った方がいいね」
 とぼくが言い、「キネ旬」の編集者が、
「向田さんは今、台湾なんです。お帰りは二十五日。こちらの校了日が二十四日ですから、校了紙に目を通していただくことになります」
 と言った。それが前の日なのだ。

 ぼくは「キネ旬」に電話をし、印刷所まで追いかけて、担当編集者を捜した。しかしまだ誤報ということもある。予定していた飛行機に乗らなかったこともあり得る。

 ニュースのたびに、向田さんの遭難は確実と思えるようになって行った。編集者と連絡がとれたが、だからと言って何の役にも立ちはしない。ただニュースを確認し合うだけのことである。

 あの日、向田さんは、とても機嫌よくしゃべってくれた。ぼくはもともと対談のホストなんて柄じゃない。しゃべるのは不得手のジャンルである。映画がテーマだから、何とかもっているようなものだ。それに、ゲストに助けて貰っている。助けて貰うためには親しい友人にゲストになって貰うにかぎる。しかし、それだけでは面白味に欠けるので、初対面の人にも時々参加していただく。向田さんとは初対面というわけではなかった。パーティなどで、何度かお目にかかっていた。でも親しく言葉を交わすという間柄でもなかったのだ。それなのに、あの日、会話はうまくはずんだ。考えてみると、それは向田さんのサービス精神のせいだったのかも知れない。いずれにしろ、楽しく対談ができたのは事実である。だから、今後も親しくお付き合いができそうだ、という予感が湧いた。