知識社会が高度化するにつれて、とてつもなく高い論理的・数学的知能をもつ者に富が集中する現象が顕著になってきた。シリコンバレーに集まる彼ら(そのほとんどは男性)は「テクノ・リバタリアン」と呼ばれている。

 リバタリアニズムは「自由原理主義」のことだが、IT起業家はなぜ「自由」にこだわるのか。それは、彼らの特異な能力が自由な社会・経済のもとでしか花を咲かせることができず、国家や法のきびしい規制のあるところでは枯れてしまうからだ。

 そしていま、テクノ・リバタリアンたちは指数関数的(エクスポネンシャル)に高度化する強大なテクノロジーを駆使して、(自分たちに)最適化された世界をつくろうとしている。そんな話を新刊の『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』(文春新書)で書いたが、ここではその番外編として、本書では詳しく触れることができなかった生成AI(人工知能)をめぐる人間関係の波乱万丈を紹介してみたい。

莫大な富をもつとてつもなく賢い者「テクノ・リバタリアン」が、お互いに利用し合ったり、敵対したりしながら、人類の未来をつくっているイラスト:barks / PIXTA(ピクスタ)

ジェームズ・ヒントンは「AI研究のゴッドファーザー」

 ケイド・メッツは『ニューヨーク・タイムズ』のテクノロジー記者で、『GENIUS MAKERS ジーニアスメーカーズ Google、Facebook、そして世界にAIをもたらした信念と情熱の物語』(小金輝彦訳/CCCメディアハウス)で、戦国時代のようなAI勢力図を生き生きと描いている。

 機械学習にはいくつかの大きな「学派」があり、人工知能の専門家ペドロ・ドミンゴスはそれを「記号主義者」「コネクショニスト」「進化主義者」「ベイズ主義者」「類推主義者」に分類している(『マスターアルゴリズム 世界を再構築する「究極の機械学習」』神嶌敏弘訳、講談社)。

 このうちコネクショニズムは、脳と同じように並列処理できるコンピュータをつくろうとするもので、そのアイデアは1958年にフランク・ローゼンプラット(当時29歳のコーネル大学教授)が提唱した「パーセプトロン」に始まる。だが人工知能研究の第一人者マーヴィン・ミンスキーから複雑なパターンを認識できない限界を指摘され、開発者のローゼンプラットがヨット事故で43歳で夭折したこともあり、その後は捨て置かれることになった。

 このコネクショニズムをほぼ独力で復活させたのが、1947年にロンドンで生まれたジェフリー・エベレスト・ヒントンだ。高祖父は「ブール代数」で知られる19世紀の数学者・哲学者ジョージ・ブールと、外科医で歴史家のジェームズ・ヒントン、曾祖父は数学者でSF作家のチャールズ・ハワード・ヒントン、従姉のジョアン・ヒントンは核物理学者で、原爆開発のマンハッタン計画に参加した数少ない女性科学者の一人という学者の家系で、父のハワード・エベレスト・ヒントンは昆虫学者だった。

 世界最高峰のエベレスト(チョモランマ)は、インドの測量監督だったサー・ジョージ・エベレストにちなんで名づけられたが、この測量監督もヒントンの親戚で、父と息子はともにエベレストというミドルネームをもつことになった。

 ヒントンも学者の道を目指すべく、ケンブリッジ大学キングス・カレッジで物理、哲学、実験心理学と専攻を変えたが、自分の道を見つけることができなかった。研究を続けるようにという父親の期待を重荷に感じていたこともあって、卒業後はロンドンに移って大工になった。

 だが学生時代から脳に興味があったヒントンは、大工仕事をしながら独学で勉強を続けた。そんなとき、ドナルド・ヘップというカナダ人の心理学者が提唱した、「一緒に発火するニューロンは結合が強まる」という「ヘップの法則」を知った。

 じつはローゼンプラットも、1949年のヘップの著書からこの原理を知り、人工ニューラルネットワークのパーセプトロンを考案した。ヒントンはローゼンプラットから10年ほど遅れて同じ理論に刺激を受け、土曜日になるたびにロンドン郊外の公立図書館にノート持参で通って人工知能を学んだ。

 同じころ、エディンバラ大学に人工知能の大学院過程が誕生した。ヒントンは父親が教鞭をとる大学の心理学プロジェクトに短期で雇われると、それを足掛かりにエディンバラのAIプログラムに進んだ。そこでアメリカの研究者とともに、「誤差逆伝播法(バックプロパゲーション)」によってニューラルネットワークを多層化する方法を編み出し、ミンスキーが指摘した欠点を克服できることを示した。

 ヒントンはその後、カーネギー・メロン大学などを経てトロント大学のコンピュータ・サイエンス学部に招かれ、多くの弟子を育てたことで、「AI研究のゴッドファーザー」と呼ばれるようになる。

生成AIは、シリコンバレーのきわめて狭い世界の古くからの顔見知りたちによって開発された

 1980年代の第二次AIブームはコンピュータに膨大な専門知識を学習させるエキスパートシステムが主流で、ヒントンらのニューラルネットワークはほとんど注目されていなかった。そんななか、パリのESIEE(電子電機工学技術高等学院)で人工知能を学んでいたヤン・ルカンは脳と同じように学習するコンピュータに関心をもち、1985年にパリの学会でヒントンに会ったことから共同研究をするようになる。

 ルカンが成し遂げたブレークスルーは、日本のコンピュータ科学者福島邦彦の研究にヒントを得た「畳み込みネットワーク」で、それをヒントンのチームが、大量のニューラルネットワークを一層ずつ訓練する「ディープラーニング」へと洗練させた。

 2000年代に入ると、一部の研究者がヒントンとルカンのニューラルネットワークの可能性に気づきはじめた。スタンフォード大学の准教授アンドリュー・ン(香港生まれの医師の息子で、ロンドンで生まれシンガポールで育った)もその一人で、2010年、グーグル創業者のラリー・ペイジに、新たなムーンショットとしてディープラーニングをベースにしたAIの事業化を売り込み、34歳でAI研究所「グーグル・ブレイン」を設立した。

 だがその後、インターネットを介した教育事業に関心を移したアンドリュー・ンは、グーグルを退職することに決め、自分の後任にトロント大学のヒントンを推薦した。ヒントンは大学を去る気はなかったものの、グーグルでひと夏を過ごすことを了承し、そこで個人で雇われるのではなく、会社をつくればずっと大きなお金で買収されることを知った。

 2012年10月、ヒントンは2人の大学院生と一般画像認識コンテストに参加し、それまでの常識を覆す驚異的な成績で優勝、ディープラーニングの威力を見せつけた。その2カ月後、ヒントンは3人で「DNNリサーチ」という会社を設立した。社員である大学院生の2人はいずれも旧ソヴィエト連邦で生まれ、イスラエルを経てトロントにやってきた。その1人がイリヤ・サッツケーバーだ。

 ヒントンの新会社に最初に買収オファーを出したのは、中国のテクノロジー大手バイドゥだった。グーグルとマイクロソフトがそれに続き、当時はほとんど知られていなかった設立2年目のスタートアップも入札に加わった。その会社はディープマインドといった。

 ヒントンの会社のオークションでは、最初に現金がないディープマインドが、次いでマイクロソフトが2200万ドルで離脱し、バイドゥとグーグルが4400万ドルで競り合ったとき、椎間板ヘルニアのため中国に行くのは無理だと考えていたヒントンは、バイドゥを断ってグーグルへの売却を決めた(さらにオークションを続ければ、もっと高い値段で売れることはわかっていた)。

 こうしてニューラルネットワークがAI開発の主流に躍り出るのだが、ここまでで現在の主要メンバーがほとんど登場している。ヒントンの共同研究者ヤン・ルカンは、マーク・ザッカーバーグにスカウトされてメタ(フェイスブック)のAI部門を任されている。ヒントンの前任のアンドリュー・ンはその後、バイドゥの副社長兼チーフサイエンティストになった(現在は退任)。ディープマインドはグーグルの子会社になり、2016年にはAlphaGoが「世界最強」と囲碁棋士を破った。ヒントンとともにDNNリサーチを設立したイリヤ・サッツケーバーはオープンAIの創設に参加し、昨年の騒動ではサム・アルトマンの解任に賛成票を投じることになる。

 このように生成AIは、シリコンバレーのきわめて狭い世界の、古くからの顔見知りたちによって開発されたのだ。