(1)日本社会は形式合理性を重視する

 専門家の立場で見て、今回の声明は日本的コンプライアンスの優等生とも言える声明です。

 問題の本質は日本的コンプライアンス自体が間違っていることなのですが、その間違って設計されたルールの上では正しく声明を発表しているのです。

 なぜか日本では“形式的にとても正しいこと”が非常に重要だとされます。

 具体的に説明すると、詐欺が発生していることは悪いことです。それに対して形式的に一番正しいことは「その問題を認識していて、きちんと対応している」と説明することです。メタ社はこれをちゃんと行っています。

 一方で、形式合理性の反対語に実質合理性という言葉があります。

 実質合理性で今回の問題を記述すれば、メタ社のSNSに表示される詐欺広告で「日本人に多くの詐欺被害者が出ていて、その犯罪を通じて反社会的な集団が巨額の利益を得ており、かつその犯罪集団からメタ社に広告費の形でその資金が還流している」という問題です。

 実質合理性の観点で見れば大問題なのですが、残念ながら形式合理性の観点で見た場合は問題はありません。

 なぜならメタ社から見れば「反社から広告費が支払われているかどうか」を認識すること自体が困難だからです。結果的にそれが起きていれば大問題ですが、そうかどうか多大な努力と3兆円の投資をしていても結果として把握できていないというのがメタ社の立場です。

 確かに反社が何を指すのかは、桜を見る会の問題の当時、「反社の定義は明確ではない」と閣議決定されているぐらいですから、メタ社の立場では難しいのでしょう。日本社会の問題を理解したうえで、メタ社は「理解してほしい」と言っているのでしょうか。

 前澤氏の、

“「審査チームには日本語や日本の文化的背景を理解する人を備えている」なら、俺や堀江さんや著名人が利用された詐欺広告なんてすぐに判別できるでしょ?”

 という怒りについても、実質合理性的にはその通りですが、形式合理的には「会社は審査チームを設置している。そのチームが能力的に劣っているのは課題ではあるが、社会問題ではない」ということになります。

「何をバカな?」と思うかもしれませんが、先般の裏金問題の政治倫理審査会の中継で国民が目撃したとおり、歴代の安倍派事務総長は管理責任面で無能で「知らなかった」ため、国会内ではセーフ、自民党的には2人を除いて微罪で済まされています。

 つまり形式合理的であれば仕方ないで済ますのは、メタ社が主張するとおり日本社会の根源的な問題なのです。