頭のいい人は、「遅く考える」。遅く考える人は、自身の思考そのものに注意を払い、丁寧に思考を進めている。間違える可能性を減らし、より良いアイデアを生む想像力や、創造性を発揮できるのだ。この、意識的にゆっくり考えることを「遅考」(ちこう)と呼び、それを使いこなす方法を紹介する『遅考術――じっくりトコトン考え抜くための「10のレッスン」』が発刊された。
この本では、52の問題と対話形式で思考力を鍛えなおし、じっくり深く考えるための「考える型」が身につけられる。「深くじっくり考えられない」「いつまでも、同じことばかり考え続けてしまう」という悩みを解決するために生まれた本書。この連載では、その内容の一部や、著者の植原亮氏の書き下ろし記事を紹介します。

遅考術Photo: Adobe Stock

なぜ、トロッコ問題は難問なのか

 以前の連載で、ジレンマの対処法について紹介した。ただ、そうした対処法がいつもうまく使えるものなのか、疑問を持った人も多いのではないか。

 たしかに、モラルジレンマ、つまり道徳にまつわる厳しい二択状況にはそういう例がある。有名なのは、トロッコ問題やハインツのジレンマだ。

 トロッコ問題は聞いたことが人も多いだろう。トロッコが暴走していて、そのままだと作業員が5人死んでしまう。けれど、手を打てば1人の犠牲で済む。――だいたいはこのような話だ。

「ハインツのジレンマ」はトロッコ問題ほど有名ではないかもしれない。ハインツには、がんの妻がいて、彼女を救うために特効薬がほしい。けれども、お金が足らなくて薬が買えない。このとき、妻の命を救うという目的で特効薬を盗むことは許されるか、という問題だ。

 どちらの問題も、すんなりと答えを出すのは厳しそうだ。

 こういうモラルジレンマにすっきりした正解がある見込みはあまりない。どっちの選択肢をとっても割り切れなさが残る。その意味では、本書で紹介しているジレンマの3つの対処法のどれも有効ではない可能性が濃厚かもしれない。

 でも、いったいなぜそうなるのだろうか?

「どうやってモラルジレンマを解決すればよいか」ではなくて、「そもそもなぜそんな解決困難なジレンマが存在するのか」という問いを考えてみたい。

解決困難なジレンマが生じるわけ

 これは、なかなか根源的な話になってくる。正しい倫理の理論はあるのか、それは一つに決まるのか、という問いにもつながるからだ。

 でも、「何がモラルジレンマを生み出しているか」という問題に絞るなら、二重プロセス理論で少し見通しがつくという見解がある。

 二重プロセス理論は、脳に備わる、直観的に考える働きと熟慮する働きという、2つの考えるしくみだ。それぞれ、システム1とシステム2や、オートモードとマニュアルモードといわれるときもある。

 この「オートとマニュアル」という2つのモードの区別は、ジョシュア・グリーンという人が二重プロセス理論を説明する際に使った比喩だ。

 解決しがたいモラルジレンマについて、「システム1とシステム2の機能の相違に起因するものとして説明できるかもしれない」とグリーンは『モラル・トライブズ』(※)で論じている。この本では、トロッコ問題も非常に詳しく検討されている。

 要するに、オートとマニュアルで出す答えが違うからジレンマに陥る、というわけだ。いずれにせよ、このテーマはまだまだ研究の途上という感じではある。

 ただ、道徳的なよしあしには、感情を含んだ直観が真っ先に働く。しかし、熟慮してみると別の回答が導き出される場合がある。

 だからこそ、直観だけで道徳的な判断をするのではなく、熟慮を含めた2つの思考モードが道徳に関してどう働くかを確認する必要があるのだ。

 このことは、実は倫理学を学ぶことの意義も合わせて明らかにしてくれる。

 たしかに、今回挙げたような問題は、ただ一つの正しい答えが出せるようなものではない。

 しかし、頭ごなしに「これは正しい」「いや絶対にダメだ」とやり合うのではなく、またその反対に「価値観は人それぞれ」で済ますのでもなくて、「自分や他人が道徳に関するよしあしを判断するうえで、どんなことが根拠になりうるのか」自体を慌てずによく考える訓練になる、というわけだ。

(※)ジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ―共存の道徳哲学へ』、竹田円訳、岩波書店、2015年。

(本稿は、植原亮著『遅考術――じっくりトコトン考え抜くための10のレッスン』を再構成したものです)

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遅考術』には、情報を正しく認識し、答えを出すために必要な「ゆっくり考える」技術がつまっています。ぜひチェックしてみてください。

植原 亮(うえはら・りょう)

1978年埼玉県に生まれる。2008年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。博士(学術、2011年)。現在、関西大学総合情報学部教授。専門は科学哲学だが、理論的な考察だけでなく、それを応用した教育実践や著述活動にも積極的に取り組んでいる。
主な著書に『思考力改善ドリル』(勁草書房、2020年)、『自然主義入門』(勁草書房、2017年)、『実在論と知識の自然化』(勁草書房、2013年)、『生命倫理と医療倫理 第3版』(共著、金芳堂、2014年)、『道徳の神経哲学』(共著、新曜社、2012年)、『脳神経科学リテラシー』(共著、勁草書房、2010年)、『脳神経倫理学の展望』(共著、勁草書房、2008年)など。訳書にT・クレイン『心の哲学』(勁草書房、2010年)、P・S・チャーチランド『脳がつくる倫理』(共訳、化学同人、2013年)などがある。